【徒然読書日記】 その32 すばらしい新世界
「でも、僕は不都合が好きなんです」
「でも僕は、楽なんかしたくない。
神がほしい、詩がほしい、本物の危険がほしい、自由がほしい、善がほしい。
罪がほしい」
「僕は不幸になる権利を要求する」
「老いて醜くなり、無力になる権利はもちろん、梅毒や癌にかかる権利、虱にたかられる権利、あしたどうなるかわからないという不安をつねに抱えて生きる権利、腸チフスになる権利あらゆる種類の言語に絶する苦痛にさいなまれる権利も」
これは本書に出てくる「野人」と呼ばれる青年が作中の社会へと向けた言葉だ。
高度な技術を獲得し、暴力を排斥した社会。長寿と健康を保証され、多くの人々が娯楽と安寧を獲得した社会。けれどそれらを保証するための制度は我々にとっては歪なものだ。
工場で生産される赤ん坊達。胎児の段階で生殖能力を奪われ、妊娠・出産というシステムは存在しない。工場におけるパブロフの犬式の習慣づけで、階級と能力が決定されて世へ流れていく人々。個人とは社会全体の所有物であり、特定の恋人を持つことは嫌悪され不特定多数との関係やセクハラが奨励される。
現代を生きる者にとってはなんと不気味に感じることだろう。けれど作中において適合できない人間はいても、疑問を感じる人間はいない。
作中で印象的なシーンがある。不幸な偶然からこの社会の外側で、自然出産により生まれた野人ジョンは、社会の中に入り父親に出会う。そして「お父さん!」と呼びかけるのだった。
周囲の反応は強烈だった。爆笑が長く長く響き続けたのだ。父親は逃げ去り、恥辱のあまり仕事をやめ姿を消した。
これをフィクションだと一蹴してしまうことは簡単だろう。けれど、人間の価値観や社会というものは時代と共に変化してきた。ユダヤ・キリスト教の普及や西欧化する以前の社会では性に対して奔放なのは当たり前のことであったし、体への負担や不自由を嫌って妊娠しない選択をする人々は一定数存在する。格差の開きによって生まれで人生を左右されることはめずらしくないし、情報社会において信用を可視化することで待遇が変わるという制度を中国が本格導入を明言している。
もしかすると今を生きる我々自身が、近い将来「野人」となっているかもしれない。
ディストピア小説とは一種の娯楽であると同時に、一つの問いかけであると思う。
提示された社会・思想への是非は?
なぜそう判断したのか?
否定するのであれば、我々はどういった行動を必要とするのか?
あなたはこの「新世界」に対してどのような返答をするだろうか?